鬼 壱 





まるで…見世物。










止むことのない冷たい雨を頭からかぶり、泥まみれになって地べたに座り込んでいる様はさぞかし奇異なものだろう。

人々は道の傍らに座り込むそれを訝しげに見るが、決して目を合わせようとはしない。


しかし、彼女はそれには気付かない。

今の彼女にとっては、それらと自分とは関わりのないもの。



時よ止まれと、必死で願っていた。







「アンタ…さっきからずっとここにおるけど、どないしたの?」



彼女と世界との関わりを再び結んだのは、綺麗な声。

最初、彼女はそれが自分に向けられたものだと分からず、応えようとはしなかった。
しかし、視界の端に赤い番傘を捉え、顔を上げるとその人と目があった。
そこで彼女は漸く、それが自分に向けられたものだと理解した。


「…名前は?」

そう聞かれて、彼女は困惑した。



ナマエ?


(思い出せない…)
その時頭に小さな痛みが走った。






そう言ったのは懐かしいアノ声。
どうしても、その人の顔が思い出せない。

「私…は……?」

やっとのことでそう言うと、唇が震えた。

喉がかすれた。


まるで長いこと、泣いた後のように。

そんな彼女を見て、その人はますます心配そうになった。
「どうしたん?誰か連れはおらんの?」


しかし、『どうした』と聞かれても、彼女には答えることができなかった。






連れてこられたのは小さな、けれど綺麗な部屋。
声を掛けてくれた女性の部屋だという。

女性の名は歩。

ここは新撰組の屯所で、歩さんはここで女中として働いているらしい。
人目に付かないよう、裏口から入ったが、屯所は相当な大きさの建物であることが分った。




空が鈍色であるせいか、屯所内は薄暗く、嫌な臭いがする。
なんだか、頭が痛くなるような、胸がざわつくような、嫌なにおい。

(なんだっけ…)

がそんなことを考えていると、歩が手ぬぐいを渡してくれた。

「新撰組ってなんですか?」
手ぬぐいを受け取りながら、そう尋ねると、歩が眼を開いた。

「知らんの?」

そう言うと、は首を一度だけ、縦に振った。

(記憶喪失…?)

そう考えれば、あんなところにいたことも、自分のことをあまり話さないことも理解できる。

「新撰組っていうのは京都守護職のこと。簡単に言えば京を守る侍たちの集団やね。」

そう言いながら、歩は再びに尋ねなければいけないことが出てきたのに気づいた。


「…アンタ、女の子なんよね…?」

髪をといたはどうみても女の子だ。しかし、着ているものは、女物の着物ではない。

「なんで男装しとるの?」

そう言われて、は初めて自分の体をまじまじと見た。
本当に男物の着物、袴をはいている。
念のため、胸元をのぞいてみると、そこにはきっちりとサラシが巻いてあり、着物の上からでは、全く分からないようになっていた。
とりあえず、自分は女だ。しかし、男の恰好をしているのが常であったらしい。特に違和感などは感じない。

「…これが、私の中ではこれが普通のことのようです。」

「…それなら、いいんやけど。」

歩は乗り出していた上半身を元に戻し、の真正面で、彼女の目を覗きこむ。

(なんて目をしているのだろう。)

と歩はそう思った。
死んだような、目。
くすんだ宝石のよう。
黒曜石のような、綺麗な瞳のはずなのに。

「アンタ、これからどないするの?」

そう問うと、瞳が少しだけ揺れた。



分かるわけがない。


コレカラなんて。



今の自分には意味を持たない言葉のように感じた。


イママデが分からないのに、コレカラなんて。

何処から来たのか、何処へ行きたいのかさっぱり分からない。
が目を伏せると、歩は決心したように、短く息をはき、口を開いた。

「行くとこないんやったら、ここにいたらええ。」

突然の提案に、はひどく呆けた顔をしていたらしい。
歩はくすくすと笑いながら続けた。

「時間がたてば、何か思い出すかもしれんし。うちも手伝ってくれる子、欲しかったところやし。」

「い、いいんですか?」

「他に行くあてないんやろ?」

コクコクとが頷くと、歩は立ち上がった。

「それじゃあ決まり。局長と副長に許可もろうてくるから、ちょっとここで待っててな?」

そのまま、部屋を出ていこうとしていた歩は襖に手をかけたところで、後ろを振り返った。
その背中を見つめていたと目が合う。

「女の子でいいん?男の子にしとく?」

「男で。」

は即答している自分に、自分で驚いているようだった。

「それやったら、ちゃんじゃダメやね?名前、どないしよ?」

の唇が、小さく動いた。




「……。」








出会ってしまったのは、必然。