肆
「何処行った…犬っころ。」
太陽は真上。
風は穏やか。
申し分のない洗濯日和である。
は空になった洗濯籠を憎々しく見下ろす。
歩に小姓二人でやってくれと頼まれたソレは一人ですっかり終わらせてしまった。
自分が犬っころとしか思っていない新人小姓市村鉄之助に特に期待はしていない。
彼が居て、劇的に早く作業が終わるなんてことはない。
日ごろの素行を見ていれば一目瞭然だ。(むしろ、長引く可能性のが高い。)
しかし、は鉄之助に仕事を覚えさせろという歩からの命を受けていた。
そもそも、このような日常の雑務は小姓の仕事ではないのだが、慢性的な人手不足に加え、歩もこの頃忙しそうにしている。
そんな中、も小姓だからと言って仕える人間にぴったりと張り付いたままではいられない。
鉄之助にはなるだけ早く雑務を含め仕事を覚え、働いてもらわねば手が回らなくなってしまう。
それなのに、が屯所中を探しまわっても鉄之助の姿が見当たらないのだ。
いつ現れるか分からない鉄之助を待つ間にも仕事は増えていく。彼女は諦めて一人で洗濯をする道を選んだ。
「…ったく。」
空の籠を2つ重ねて屯所の廊下を歩く。
途中、土方の部屋の前を通るが、勿論鉄之助の姿はない。
しかし、机に向かう部屋の主と目が合ってしまった。
「あ、っと…副長、市村が何処に居るかご存知ですか?」
「いや。全く見てねーな。」
「そう、ですか。ありがとうございます。」
失礼しました、と部屋を後にする。
まさか、「全く」とは。
土方副長付きの小姓だろうに。
「あの犬…。」
歩に鉄之助の夕食を減らしてもらおうかと考えながら、また屯所の廊下を進む。
すると、廊下の角で、誰かとぶつかりかけてしまった。
「わっ…と、すみません!」
「いや…。」
それは、山崎丞であった。
彼が昼間の屯所をうろつくのは珍しい。恐らく土方に報告に向かうのだろう。
特に言葉を交わすこともなく、山崎はの横を通り過ぎて行った。
「何か…あったのか?」
あまり言葉を交わすことはないが、これまで見たことのないような複雑な顔をしていた気がする。
彼の掌が赤く腫れていたのを、は見逃さなかった。
漸く見つけた鉄之助は、左頬を赤くはらして、兄にしがみついて泣いていた。
「あ、沖田さん。」
さすがにそんな状態の鉄之助を引きずって仕事をさせるほど、も厳しくはない。
何となく、何か知ってそうな沖田を見つけたは彼に事情を尋ねることにした。
「おやくん、どうしました?」
「犬…じゃなくて、鉄之助どうしたんですか?」
さすがに泣いていたんだけれど、とは言えない。
「…あの子は、素直な子ですねぇ。」
に背を向け、質素な庭しかない表を見る沖田の表情はうかがえない。
ただ、その口から出たのは答えではなかった。
しかし、はその手に握られたものを見て大体の経緯を推察できた。
「…局中法度を、教えたんですね。」
副長土方が作った隊規
新撰組の支配者
彼は、何を思ったのだろう
「新撰組に居る限り、知らねばならないことです。彼が鬼になることを望むのなら、ね。」
何故、仔犬は牙を剥くことを止めないのだろうか。
頭が、痛い。
「鬼…。」
「鉄之助くんに怒られちゃいました。「長人だって人の子だ」って。」
頭に霞がかかったように、沖田の声が遠くから聞こえる。
「ただ、「人」を斬る私達は「鬼」でなければ駄目なんです。」
キモチガワルイ
「じゃあ…私は……」
あなた達を鬼と言うのなら…
それなら、私は…
何だ?
「くん!?」
弾かれるように走り出したに驚いた沖田が声を上げる。
しかし、は振り向くことが出来なかった。
具合が良くないといって、早く寝たのが良かったのか。
次の日、はすっきりと目覚めた。
「ごめんなー。なんや、鉄之助君が近藤さんの小姓するみたいやから、君女中さんの仕事手伝ってくれへん?」
朝一で自分に手を合わす歩に断れるはずもない。
「でも副長のは…?」
「あー沖田さんがやるって言っとったで。」
納得。
炊事、洗濯、掃除、そしてまた炊事
忙しくはあるが、は女中の仕事が嫌いではない。
休憩中の隊士と言葉をかわしながら仕事をすることも多いし、何より何も考えなくて済む。
「…っつ」
買い物から戻ったは、また痛み出した頭を軽くふる。
最近、頭痛の回数が増えた。
恐らく疲れがでているのだろう思ってはいるが、忙しいこんな時期に休むわけにもいかない。
頼まれたものを持っていくと、歩も一段落着いたところのようで、久しぶりに二人でお茶を啜る。
「アユ姉、忙しいの?」
「んー、ちょっとな。ちゃんにはえらい迷惑かけてしまって…悪いなあ。」
「別に大丈夫だよ?」
なんとなくだが、は歩の本業も分かっている。
ただ、事が事だけにあまり深く突っ込めない。
「でも最近、顔色優れないで?」
「そう、かな?」
歩にはとても世話になっているし、あまり心配かけたくない。
その一心で歩には頭痛のことは話していなかったが、やはり分かってしまうのだろう。
自身は気付いていないが、血色が悪く、元来白い肌がますます白く見える。
「男の子のフリしとるから周りは気付かへんけど…大変なこととかあるんとちゃう?」
「そんなことないよ。お仕事も楽しいし。」
実際、男装は本当にの中で自然なことらしく、それ自体は何ともない。
強いて言えば、時々サラシを巻くのが億劫なくらいだ。
「そっか。ならええんやけど…。なんか困ったことあったら言ってな。」
「うん。ごちそうさま。」
歩の気づかいに、は自然と笑顔になる。
屯所で一番居心地がいいのは、歩の近くだ。
その歩が忙しくしていることは、少し寂しいが、そんな我儘は言っていられない。
仕事は次から次へとあるのだから。
部屋を出ていこうとするに歩は慌てて付け足した。
「あ、そうや!記憶は?どうなん?」
「…ううん。何にも。」
目を伏せてそう言ってから身を翻して行ってしまったに、歩は眉根を寄せた。
「ちゃん…」
まさか、とは思っている。
けれどそれが、もし仮に事実だったとしたら。
彼女は…どうするのだろうか。