陸
「何処行った…犬っころ。」
太陽は真上。
風は穏やか。
申し分のない洗濯日和である。
は空になった洗濯籠を憎々しく見下ろす。
何度思ったか知れないが、はそろそろ諦めを感じ始めていた。
鉄之助は土方の小姓としての仕事をしている様子はほとんどなく、
最近は隊士に混ざって道場で稽古つけてもらっているらしい。(勿論土方のいない時を狙って)
そもそも、最初から彼に期待はしていない。
歩が別の仕事に入ってから、その仕事は各々に振り分けられているが、一番大きなしわ寄せが来たのは、
一番近くに居ただった。ただ、それは自ら望んだことでもあった。
(仕事、しているほうが…良いし。)
余計なこと、を見聞きするたびに込み上げる嫌悪感。
それを振り払うために仕事に打ち込んでいた。
「う、あ…。」
洗濯籠を持ち上げた途端、視界が歪む。
なんとか踏ん張るが、朝から感じていた頭痛と吐き気は一層強くなったように思う。
限界だった。
「うわ、水汲み忘れた。」
洗濯を片付け、台所に戻ると水瓶は空。これでは何もできない。
痛む頭を押さえて井戸に水を汲みに行く。
水を並々と汲んだ水桶を両手に台所までの長い廊下を歩く。
たぷたぷと左右に揺れる水が廊下を汚さないように細心の注意を払ってゆっくりと進む。
誰もいない、見慣れた廊下が揺れた気がした。
一瞬硬直した体が、まるで水の中のように動きづらくなる。
知らないはずの何時かと無理矢理重なった。
喧騒が遠ざかる。
(…知らない。)
色鮮やかに描かれた襖絵
(…知らない。)
幼い笑い声
(知らない。)
向こうに居るのは…
誰…?
思わず両手から滑り落ちそうになった水桶を慌てて持ち直す。
そこは見慣れた殺風景な屯所の廊下。
走った後のような呼吸が煩い。
それでも、目を閉じればすぐに落ちつけた。
大きく息を吐いてから目を開けると、手に入れたはずの日常に戻れた。
気を取り直して足を進めると、聞こえたのは聞き覚えのある声。
大声で叫んでいる。
「あの犬…。」
せめて、せめてこの重労働だけでもさせようと、倦怠感の残る体に鞭を打ちは廊下を声の方へ進んだ。
しかしそれがいけなかった。
角を曲がった瞬間に飛び込んできたのは赤髪。
目を合わせる暇もなく、の胴体に衝撃が走った。
少し離れたところにお決まりの3人がいるのが見える。
「…っぐ!!?」
「どわあああああああっ!!」
まともに受け身も取れず庭に転げ落ちるとさらに鉄之助がぶつかってきた。
追い打ちをかけるように投げ出された水桶から大量の水が2人に降り注ぐ。
「オーイ!だいじょぶかああ!?」
「生きてるー?」
「派手にいったけどへーき?」
近付いてくる原田と藤堂と永倉に、2人は動けずにいる。
お互いに目は合わせないが、鉄之助が驚いた顔をしているのはすぐに分かった。
そう、今日は朝から具合が悪かった。
だから脹らみを隠すための晒を緩めに巻いていた。
ずるりと、背を落ちる感触。
首筋から胸元へ雫が伝った。
「…え?おい、?え、何で…?」
衝撃でほどけた赤い髪紐がの右手に落ちる。
困惑した鉄之助の顔に、自分でもはっきりと分かるほど血の気が引いた。
「お前…女!!?」
後先を考えず走り去ったが、話はまたたく間に屯所中に広まったらしい。
時と場所が悪かった。あの時あの場には稽古を終えた隊士達がたくさんいたのだから、当然だ。
少しでも部屋を出れば好奇の視線に曝される。
(なんか、あの時と似てる。)
歩に拾ってもらった時。
世界のことも自分のことも何も分からず、ただ自分への嫌悪だけを感じていたあの時。
歩に世界と繋いでもらったのだ。自分は。
「です。失礼します。」
が障子をあけると、自分を呼び付けた副長だけでなく局長までもいた。
たかが一人の小姓のことで手を煩わせたことを考えるといたたまれない。
目に見えてうろたえている局長をみて、逆には自分の腹が決まっているのを感じる。
「君…本当、なのかね。あの話は。」
「はい。皆様がお話されている通りです。今まで皆様を欺いてきたこと、本当に申し訳ありません。」
一度畳に落とした視線を上げる。
動揺と落胆が局長の顔からはっきりと読み取れる。
心がちくりと痛んだ。
「…何故…?」
「分かりません。歩さんに拾っていただいた時、咄嗟に…。」
思えばおかしな話。
何故性別を偽って、あんなところで雨に濡れていたのか。
「まさかそのことが、皆様にこんなご迷惑をおかけすることだとは思ってもみませんでした。」
あれから、鉄之助には一度も会っていない。
彼はどう思ったのだろう。
「どうぞ、処分を。」
それまで、一言も発しなかった副長を見やると、彼は頭をかきむしった。
「こうまで隊士達に広まっちまったら、お前をここに置いておくことは難しい。」
「しかし、歳…!」
こんなに賑やかな場所にいられたことに、感謝しなくては。
「今日中に、出ていきます。」
何もなかった自分に日常を与えてくれたのだから、置いてくれたことに感謝しなければいけない。
こんな、私に。
「これまで、本当にありがとうございました。」
「どうした、鉄之助。」
少なすぎる荷物を持ってが戸口に向かうと、薄闇に鉄之助が佇んでいる。
問うてみても言葉はない。どうやら別れの言葉は決めかねているらしい。
「ったく。どうしてくれんだよ。お前さえ突っ込んでこなかったら女だってばれなかったんだぞ。」
「…悪ぃ。」
目に見えて落ち込む鉄之助に、は大袈裟に溜め息を吐いてみせる。
「そんなんで大丈夫かー?私の分の仕事もぜーんぶ、お前に回るんだからな。」
「…」
何の前触れもなく、切なげに萎れる赤毛をは空いた手でかき回した。
「うおっ!?」
「お姉ちゃんの分もしっかり気張れよー。」
慌てる鉄之助の顔を覗きこむと、漸く笑ってくれたようだ。
「元気でな。」
「おう、も…じゃねえや。えと…。」
「だ。」
「も、元気でな。」
薄闇に彼女が呑みこまれるまで、鉄之助はその背を見守っていた
彼女は再びこの場に戻ることになる。
それが彼女にとっての幸か不幸かは、時代には関係ないことなのだ。