青くて冷たい夜


刺すような月の匂い



一歩一歩ゆっくりと階段を上がるたびに街中に響いている自分の足音






がらりと、開けた。

ひっそりとしていると思っていた家の中からはどこか安心するような生活音がして、
しかも見知った雪下駄を玄関に見つける。



居間から漏れる細い明かりを見た途端、知らずに力んでいた肩がだらしなく弛緩する。
ついで顔も。





「たでえまあー」




一度腰をおろすと、もう一度も立ち上がれないような気になる。
そのまま体を倒せば、もう一度も起き上れないような気がした。






「…駄目親父。」
「俺ぁ子持ちになった覚えはねーぞ。」

逆さまに映る女は、呆れ顔で引っ込んだ。
ブーツを乱雑に脱ぎ捨てたところに水を持って戻ってくる。


「ほれ。お宅の神楽ちゃんがご飯が足りないと泣きついてきましたよ、坂田さん。」

「おう。ほら、あれだ。メシは自分で手に入れるものというサバンナの教えをな。」

未だ呆れ顔の女、ご近所のさんから受け取った水を一気に飲み干す。
胃の不快感は幾分収まったが、体が重い。
とても重い。


「いつまでそうしてるつもりよ。」

「あーちゃんだっこー」





ふざけて袖を引いたら顔面に肘鉄が決まった。


「きしょい」


酷い。














それでも這うようにして(自力で)辿りついた居間はやはり明るく温い。

「…あったけえ」

「外寒いんだ。鼻赤いよ、銀さん。」

「それさっきの肘鉄のせい。」


甘い匂いがした。
甘い、洋菓子のような香り。



「おい、夕飯なに食ったの?」

台所に向かう背中に問う。

「えーと…用意してあったのが卵かけご飯セットでしょ?あと、お魚煮たのとわかめの味噌汁ー。」

かちりと、青い炎が立つ。

「だけ?」

勝手知ったる他人の台所。は慣れた様子で茶葉を取り出した。

「だけってなに。」

「銀さんいない間に糖分とったりしてねえ?」

「摂ってないわよ。どんだけ糖分に執着してんだ。こえーよ。」



急須と湯呑みを2つ持ってが戻ってくる。
するとまた、甘い香りがする。


何の匂いだ?


湯気の立つ湯呑みを渡されたときもまた香った。
が動く度に香る甘いそれ。
堪らず呑みかけの湯呑みをテーブルに戻した。

「ちょっとさん、こっち来なさい。」

「は?」

「いーから」

訝しげに彼女が近付く。
やはり同時に香りも近付いた。

「やっぱお前か。」

「へ?」







甘い





甘い






甘い





甘くてどうにかなってしまいそうだ。










「甘い」

「だから何が?」







くらくらと回るアルコール


甘い匂い







2つにほだされて。








「好きだ。」

引きよせた体は温かく甘い。

「…酔ってる。」

つれない返事で両腕から抜け出そうとする彼女を逃がすまいと力をこめる。









「痛い…」



もっと。もっと。もっと。




「ねえ銀さん痛い…」






この温もりを逃さないように強く。






「ねえ…い……痛いって言ってるでしょうがあああああっ!!」

逃げるのを諦め、攻撃に転じたの拳が顎にクリーンヒットする。
ソファの端まで吹き飛んだ。


「ここでアッパー!!?空気読めよおおおお!!」

「うるっさい。そんなに必死にならなくてもいなくなったりしないわよ。」








拍子抜けした。
よくよく見れば彼女の顔が赤い。

息をとめた。







「神楽ちゃんがご飯食べ終えて、一緒に片付けまでしたのって8時なの。」

「…おう。」

居心地の悪さに、自然と足を畳む。

「それから神楽ちゃんはお風呂に入って9時には寝た。」

「うん。」

徐々に俯いてしまい、の顔は髪に隠れて全然見えない。

「…別にこんな時間までここにいる必要なんて何もなかった。」

「…」




ああ、温い。


「けど、銀さんに会いたくて待ってたんだ。」


顔を上げた彼女は少し困ったような目をしていた。







「好きだ。私も。」







温い。
外の寒さなんて忘れてしまえる程、温かった。














青くて冷たい夜も

刺すような月も














会いたい人がいれば越えていける
甘い匂いを辿って、温もりを探す



















青い夜 月の匂い














「…まじでか。」

「まじでだ。」















ちゃあああああああああんっ!!」

「騒ぐな!神楽ちゃんが起きるでしょうがっ!!」